映画『禅 ZEN』を観た――「只管打坐」

映画『禅 ZEN』 映画(旧作レビュー)
映画『禅 ZEN』
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映画『禅 ZEN』(2009年公開)を観ました。図書館からDVDを借りて観ました。

映画『禅 ZEN』は、(日本の禅宗の中の)曹洞宗の開祖である道元(どうげん)禅師の生き様と思いを垣間見ることのできる歴史ドラマ映画でした。

映画『禅 ZEN』

映画『禅 ZEN』DVD

 

私は最近まで、禅について詳しくはわかっていなかったです。ぼんやりとなんとなくイメージがあっただけのようなものでした。

禅に興味を持ち始めた私が今とりあえず思うのは、禅はまずは「座ること」から始まるようである、ということ。

 

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只管打坐(ただ座る)

映画『禅 ZEN』の中でもたびたび「只管打坐(しかんたざ)」が出てきていました。ただ座りなさい、と。

 

「ただ座っている」だけがキツいというのはあります。
ただ座るといっても、坐禅の場合、きちんとした「型」に従ったうえで「ただ座る」のです。

 

試しに、しっかりとした坐禅の姿勢で瞑想をやってみましたが……、30分も維持できず。10分もできないくらい。途中で姿勢(型)が崩れてしまいました。
また、坐禅は基本的には、目を瞑らない(あるいは半目)みたいですが、これも難しいほうのやり方ですよね。目を瞑っていたほうが集中できる、いわばラク、である。

しかしそこは修行であって、いかにラクではない手法をとるかに意義があるのだと思います。
それにしゃんと背筋を伸ばして型のとおりに静かに坐禅している姿は美しい。

そしてこの映画だったか、どこで見聞きしたのかは忘れましたが、「決まった型の中に自由があるのだ」、というふうに坐禅のことをどなたかが語ってもいた。

「型」どおりにやるからこそ美しく、そして厳しい。

 

厳しくストイックな禅修行は何のため

関 大徹氏の著書『食えなんだら食うな』を読んで、いかに禅宗が厳しくストイックであるのかを知った。
映画『禅 ZEN』では修行の部分は淡々と描かれてはいたけれども、実際には、永遠に感じるような坐禅の時間と修行の時間を送っているのだから、本当に頭が下がる。

関 大徹著『食えなんだら食うな』

関 大徹著『食えなんだら食うな』

 

どうしてそこまで厳しい修行に身を投じているのか。
映画の中で、中村勘太郎さん演じる道元禅師は次のように述べていました。

 

(誰の中にも仏がいるものだとし)
“他者への依存は自らの仏を否定すること”

“あれも欲しい、これも欲しい、こうしたい、ああしたい、などという欲が目隠しとなり、仏が見えなくなる”

“その目隠しが取れるまで、ただ座るのだ”

 

ただひたすら座り、そしてその先には、仏様に会う「目的」もあるのだということだろうか。

私としてはここ最近で得た理解からいうと、ひたすら坐禅をした先に何があるのかといえば何もないのであり、坐禅も修行も意味や目的を持ってするものではなく、どこまでいってもただ「無」あるいは「空」だけしかないのだという理解だった。
そして私は現時点としては、その何もない「空」がひたすら尊く感じる。「宇宙」に畏怖するのと一緒である感じ。

禅に興味を持つのも自然の成り行きだなと、禅を知り始めたばかりの私は思っております。

 

 

最後に、映画『禅 ZEN』にも出てきた道元禅師のお言葉を紹介して終わりにします。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
――道元禅師

 

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