黒澤明監督の映画『夢』(1990年公開)を観ました。
作品内容
映画『夢』は、黒澤明監督自身が見た夢をもとに作られています。
8部の独立したストーリーからなるオムニバス形式の映画です。
小説では短編集はよくあるけれど、映画ではめずらしいですね。
『夢』の大部分が、「妖怪」「物の怪」「ファンタジー」「ディストピア」な世界観で、そこに「自然」が絡む感じになっています。
スティーブン・スピルバーグも携わった映画?
『夢』は、日本とアメリカの合作映画です。
スティーブン・スピルバーグ監督も『夢』の制作に関係しています。
エンドクレジットに「提供:スチーブン・スピルバーグ」と記載されています。
「提供」とは何ぞや?
ウィキペディアによると、以下の事情があったようです。(※参考文献や出典が明記されていない情報ではあります)
日本国内では出資者が見つからなかったために、スピルバーグに脚本を送り、彼がワーナー・ブラザースへ働きかけ(圧力をかけ)たおかげで制作が実現した。
(引用元:夢 (映画) – Wikipedia)
それにしても「スチーブン・スピルバーグ」と表記されているあたりに当時の時代の香りがします。
俳優として当映画に出演しているマーティン・スコセッシ監督の表記も「マーチン・スコセッシ」でした。
ひと昔前「チ」→現代「ティ」って感じでしょうか。
でもromanticなどは逆に「ロマンティック」よりも「ロマンチック」のほうが現代的だから面白い。
映画『夢』を観て感じたことなど
『夢』を鑑賞していて、「映像が美しい」と感じる瞬間が多かったです。
黒澤監督の映像は「きれい」よりは「美しい」です。
「きれい」ももちろん賛辞なのですが、「美しい」は「きれい」とはまたちがう位置づけにあります。私の場合。
きれいは割と作れるというか、エフェクトをかけたり飾り立てたりすれば、それなりにきれいになるかもしれません。
「美しい」は、どちらかといえばシンプルにこそ宿ると思っています。
シンプルでいて美しいを作り出すのは難しく、ロジカルや経験に裏打ちされた技術もそうだし、勘やセンスも必要なのかなと思います。
なので「美しい」には敬意もまじります。
まあ、「きれい」「美しい」の判断や概念は、主観的なものに過ぎませんけどね。
それでは8つのストーリーについて、それぞれ思ったことを書いていきます。
1 「日照り雨」
狐の嫁入りにまつわるお話です。
短いストーリーです。あっさりと終わりました。
狐の嫁入りの言い伝えは日本各地にあり、中には「死者の出る予兆」として伝えらえてる地域もあるそうです。
それと関係しているのか(?)、男の子がキツネの家へ向かうときに花畑を通るのですが、その色合いや雰囲気が何か「天国」っぽかったです。
2 「桃畑」
雛人形と桃の木に関するストーリー。
ちょっとホラー入ってます。
日本に限らず、人形はつくづくホラーと合います。
ラストで、一本だけ花が咲いてる桃の木を見て涙ぐむ少年、いい演技してるなあ。
3 「雪あらし」
はじまって数分間(5分くらい?)、セリフがいっさいなく、男性4人が苦しそうに雪山を歩いています。
吹雪になり、やがて4人は力尽きて倒れてしまいます。
リーダー(主人公)が目を覚ますと雪女の姿が。
雪女「雪はあたたかい。氷は熱い」と口にします。
雪と氷は、たしかにそういう面もありますね。
かまくらはあたたかいし、ドライアイスなんかは触れると熱い気さえします。
そういった二重の見方とリンクするかのように、雪女の声が和音(二重)でした。
最終的に4人とも意識を取り戻す&すぐ近くにキャンプを発見するという喜ばしい終わり方ですし、個人的には雪女は救世主だったと思っています。
このストーリー3は、割とわかりやすい教訓みたいなのが含まれているし、普通におとぎ話としてありそう。
4 「トンネル」
「夢」というキーワードがはっきりと出てくるのが、このストーリー4。
主人公がとあるトンネルをくぐったら、戦死したかつての部下たちもトンネルの向こう側からやってきたお話。
はじめに一人でトンネルから現れた故・野口一等兵は、自身が死ぬ直前に見た「夢」(実家に帰還して母親が作ったぼたもちを食べた夢)を本当の出来事と勘違いして、自分はまだ生きているんだと思い込んでいました。
主人公は野口一等兵をトンネルの向こう側へ帰します。しかし次は全滅した部下たちが列をなしてトンネルの前へ出てきました。
このトンネルの前で起こった一連の出来事、これもまた野口一等兵のときと同じように夢(幻影)なのかな、と思いました。主人公の夢。
主人公は下界をさまよう部下たちに自分の苦しみを吐露したり、安らかに眠るよう説きつけたりします。それって主人公の願望だったんじゃないでしょうか。
夢で脳を処理したりストレスを緩和しようとしたりする、っていいますし、主人公は、自分ひとりだけ生き残った罪悪感や鬱屈した感情を夢(幻影)の中で発散し、疲弊した心を癒そうとしたのかなと。
ラストでトンネルの向こうから粗暴そうな犬がやってきます(トンネルをくぐる前にも見かけた犬)。一時は消化したように見えた罪悪感がまたやってきたというメタファーかなと思いました。
5 「鴉」
鴉は、カラスと読みます。
ゴッホの「カラスのいる麦畑」という絵が出てくるので、「鴉」というタイトルになったのでしょう。
内容としては、主人公がゴッホの絵の中に入り込みます。
それだけといえばそれだけで、特にストーリーに深い意味はないように思えます。
8つの中でいちばん「夢」っぽいストーリーというか。夢って、めちゃくちゃだったり、オチがなかったりしますし。
正直、6以降は論理がしっかりし過ぎているので脚色の部分が多いんだろうと予想しますが、5は本当に夢で見たのを割とそのまんま描いてるんだろうなと思います。
ゴッホ役で、マーティン・スコセッシが出ています。
6 「赤冨士」
発電所が爆発して民衆が逃げ惑うというストーリー。
東日本大震災以降に一般にも広く知られるようになった「プルトニウム」「ストロンチウム」「セシウム」の名前が出てきます。そしてそれらが体内に入るとどのような影響が出るかの説明まで詳しくおこなっています。
1990年頃から、あるいはもっと前から、こういった知識と問題意識を持っていたんですね。
映画『夢』の全編を通してそうなのですが、黒澤監督の自然への敬意が感じられます。そして映画の後半では、自然を破壊する文明・人間への警鐘が感じられます。
7 「鬼哭」
鬼哭は、きこくと読みます。
浮かばれない亡霊がうらめしさで泣くことを、鬼哭といいます。
ストーリー7には、元は人間だった鬼が出てきます。
鬼たちは共喰いするまで死ぬこともできずに、絶望と苦しみのうめき声をあげながら生ける屍状態で過ごしています。
まさに鬼哭。
ストーリー7の世界では、花畑が砂漠化したり、動植物や人間が奇妙に変化したりしています。原因は水爆やミサイルだと説明されています。
ストーリー6でもそうだったんですが、登場人物が「バカな人間……」と、人間を非難するセリフがあります。黒澤監督の心の声でしょう。
そして8では総まとめをしています。
8 「水車のある村」
7から一変して、自然に囲まれたのどかな田舎の村が舞台。
村には電気が通っておらずトラクターや耕運機などの機械もありません。
村には103歳の老人が達者で暮らしています。
よそ者である主人公が103歳の老人から、村のこと、暮らし方、生き方、などを聞き出します。
老人の口から出る言葉は、THE・長老という感じの至言。
- 人間は便利なものに弱く、本当にいいものを捨ててしまう
- 人間は、自分たちも自然の一部だということを忘れている
- 自然あっての人間なのに、その自然を乱暴にいじくり回す
- 自然を失い、人間も心を失っていく
- 死ぬことは「よく生きて、お疲れ様」でめでたいこと(若い人の死は除く)
- 生きるのは苦しいとかいうけど、それは人間の気取り。生きてることは楽しい
以上のようなことを言っていました。
黒澤明監督が伝えたかったことを老人に言わせているのでしょう。
特に自然や文明とのあり方について悲観的にぼやきますが、最後は、「死ぬことはめでたくて、生きることは楽しい」と楽観的です。
老人の初恋の人の葬式が執りおこなわれるのですが、にぎやかに楽器を弾いて、「らっせー」「よいやさ」と音頭をとりながら皆で行進してお祭りみたいでした。
いい死生観だと思います。
1→8の流れ
1から8に進むにつれ、だんだんと現実的な世界観になっていきます。
8は唯一ファンタジー色がありません。
それからこれはウィキペディアを見て初めて知ったのですが、1話の男の子、2話の少年、3話以降に出てくる青年……と、主人公は全部同一人物であるという設定だったんですね。
中盤の章からは寺尾聰さんが出つづけているのはわかってはいましたが、それぞれ別の人物の話かと思っていました。
一人の人間に起こった話なのであれば、だんだんとリアルに(現代的に)なっていくのも納得です。
あとがき
以上、黒澤明監督の映画『夢』について書きました。
ちょっぴりホラーテイストはありますが、最後の最後は前向きな感じでおさまります。