【創作読み物】『肉体か、精神か』~ある人間と大猪(おおいのしし)~

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西の村に了安(りょうあん)という名の男あり。

二十余歳の青年了安は、身体大きく、よく食べ、よく酒を飲み、快活で人付き合いよく、初めて会う者からは好感を抱かれる性質であった。

 

 

ある日、了安は一人で山へ薪拾いに出かけた。作業を終え、口笛を吹いて下山している最中、ぎくりとして足を止めた。大猪(おおいのしし)に遭遇したのだ。

大猪はじっと了安を見つめている。

その目は野生のそれとは違っていた。何かを訴えかけているかのような、思慮深ささえ感じる目。不思議な、霊的なものさえどこか感じさせる佇まいだった。

了安は固唾をのんで大猪を観察する。幸いにも向こうは落ち着いている。敵意は感じられない。このまま刺激をせずに離れよう。獣の目を見つめたまま、じりじりと後ずさりを始めた。

 

事態は急変した。大猪の目が急に鋭くなった。鼻息を荒くし、脚をその場で動かして地面を鳴らしだした。まるで野生の勘を取り戻したかのようだった。獣毛に覆われた全身から、そこはかとない殺気が漂う。

恐怖の声を漏らす了安。辛抱たまらず大猪に背を向けて駆けだした。すると大猪は追ってきた。すぐに距離を詰められ、やられる!と思った了安は、持っていた斧を一か八か大猪にぶっつけた。

すると斧は運よく大猪の急所に命中した。了安は無我夢中で斧を振り回した。ヒイヒイと息を弾ませながらめった刺しにした。大猪はぐたりとして動かなくなった。息絶えた。

獣の死骸を見つめる了安。自身は軽傷で済んだ。大猪をやっつけたという信じられなさ、喜び、誇らしさ。体は熱くなり、震える息を吐きだした後で高らかな笑い声を上げた。

 

 

 

村に帰った了安は、さっそく山での出来事を皆に報告した。一度逃げたことは伏せつつ、大猪を退治したことを、臨場感たっぷりに、武勇伝よろしく、語って聞かせた。

村の皆はいたく感心した。被害が出る前に退治してくれて有難いことだと、惜しみない賛辞を贈った。村長は宴を開いて了安の勇気ある行動をたたえた。噂は広がり、隣の村からもわざわざ了安を訪ねて武勇伝を聞きにくる者もあった。

村の若い衆の中で取り立てて期待されるほどでもなく、際立って目立つ存在ではなかった了安。自身が注目され、皆から敬意のこもった眼差しを向けられ、大変気分がよかった。

 

元より「おだて」に弱い了安は調子づき、「英雄はもっと強くならねばな」などと言っては、体を鍛えるようになった。固く太り気味だった肉体はきりりと逞しく引き締まり、丸みのあった顔はすっきりとして精悍さを帯びた。本来、体格には恵まれている了安であった。

見た目がよくなり、運動能力も増し、了安はかつてないほどの自信を手に入れた。村の者も了安の変化を誉めたたえた。若い衆の中でも将来を有望視される存在となり、了安はますます揺るぎない自信を得るのであった。再び大猪に遭遇するようなことが起これば、今度は逃げずに立ち向かって退治するのだと、そんな勇ましい野心も抱くようになった。

 

 

 

大猪の退治から一年が経った。了安は再び一人で山に入った。猪でもなんでもきやがれという気構えでいた。作業を終えた帰り道、ふと、了安は足を止めた。

周囲の木の間を、光る何かが通り過ぎたのだ。蛍にしては大きく、火の玉でもない、何か綺麗な光だった。気になり、了安は後を追った。

山道から外れて光を探し歩いていたところ、了安は崖から足を踏み外した。ごろごろと傾斜を転がり、どぼんと湖の中に落ちた。それは深い湖だった。

地面に叩きつけられるよりはマシだったか、そんなふうに思えたのも束の間、なんと水草が足に絡まっているのに気づいた。水面は頭上。上に上がらなければ溺れてしまうが、水草がほどけない。焦っていたところ、どこからともなく声が聞こえた。

 

“了安よ”

水の中ではっきりと聞こえる声。天の声だ、と了安は察した。そして、助けてくれ!と心の中で叫んだ。

“質問に答えれば助けよう”

なんでも答える。了安は藁にもすがる思いだった。

天の声は問うた。

“肉体と、精神。お前が大事なのはどちらだ”

了安はすぐに心の中で返した。両方とも大事に決まっている、と。

再び、天の声は言う。

“強き肉体か、強き精神か。お前の命を救う代わりに、お前はどちらかを失うのだ。肉体と精神、お前はどちらが大事で、どちらを犠牲にするのだ”

了安の息が苦しくなってきた。答えなければ命は助からない。どちらを「取る」か、考える。

 

誰かが言っていたのを思い出した。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」と。つまり、健全な肉体があってこその精神なのだ。それが証拠に、肉体を鍛え上げるのは、不断の努力と長い期間が必要だった。だからこそ強き肉体には価値があるのだ。

大好きな酒を控え、日々努力して今の肉体を磨き上げたのだ。逞しき美しきこの肉体、もう手放しはしない――。了安は完璧になった肉体を擲つのは惜しくなっていたのだ。

了安は答えた。

「強き精神は、本気になれば一日でも得られる。かつて大猪を倒して、それを得たように。私はそれを失ってもすぐに取り戻してみせよう。まずは強い肉体があらねばならぬのだ。私は、強き肉体を選ぶ!」

 

 

 

了安は目を覚ました。湖の脇に寝そべっていた。体が濡れている。水の中に落ちたのは夢ではなかったようだ。

了安は立ち上がろうとした。違和感を覚えた。勝手が違う。まるで自分ではなくなったような感覚だった。何かが変わっている。これはどういうことだ。

水面に自分の姿を映し出してみた。了安は荒々しく吼えた。水面には、大きな猪の姿が映っていた。了安は大猪になっていたのだった。

 

しばし立ち尽くしていた。だんだん、自分は元から大猪だったような気がしてきた。

ふと、何者かの気配がしたので上方を見上げた。一人の人間の男が、薪を背負って下山してきている。大猪には覚えがあった。

その人間の男は、了安だった。少し固く太って、丸みのある顔をした、一年前の了安。彼はまだ大猪の存在に気づかずに、口笛を吹いて歩いてくるのだった。

 

(終)

 

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門松冴果

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映画が好きな物書きです。小説を書いています。小説『アマタザキ』『霊峰記』は、Amazonの電子書籍・キンドルで発売中。

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