映画『太秦ライムライト』の“どこかで誰かが見ていてくれる”について

『太秦ライムライト』 映画(旧作レビュー)

 

素晴らしい映画でした、『太秦ライムライト』(2014)。

 

ラストシーンの集大成感は、ただただお見事。

 

見事な斬られっぷりは言わずもがなな映画ですが
「斬る」側・「斬られる」側、
「日の当たる」側・「かげ」の側、
そのどちらもが相手あっての自分というような生かし生かされの関係性であることを、つくづくと感じさせらた作品だった。

 

プロによる信頼と信頼のぶつかり合いという感じで、斬るほうも斬られるほうも凄みの嵐が吹き荒れていた。

 

福本清三さんも松方弘樹さんもとてもかっこよかった。殺陣がうまい役者は本当にかっこいい。

 

“一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる”について

“一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる”――映画の中で主人公・香美山が言っていたセリフである。

香美山を演じた福本清三氏の著書のタイトルにも用いられている。
『どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役・福本清三』(集英社文庫)

 

ああ、この意味をつかむには注意が必要だな、と感じた。

 

もちろん福本清三さんの言葉がどうこうでは全くないです。実際に福本さんには見ていてくれてる人が本当にいらっしゃった。たくさんいらっしゃる。だから説得力を感じさせてくれる。

 

もし前述の言葉を福本さんが著書の中で実際に語っているのだとしたら、ご本人にとって嘘偽りない言葉であるのは確かだけれど、かなり幅と奥行きのある言葉でもあるので、受け取り側がどう解釈をして腹に落とすかでまったく違うものになるとは感じる。

 

「見る」という動詞に幅があるし、福本氏のキャリアや人生に奥行きがあるので、言葉のどこに本質の点があるのかを自分で見据えないと、ずうんと嵩(かさ)がある言葉の中で迷子になりそうである。

 

 

“一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる”

文字だけ見れば「自分の努力や頑張りを誰かが見ててくれる」とも受け取れるが、それは私の中ではまったくもってナシな解釈というか、受け取り側の自分がそう受け取ってはいけないと思っている。

私は“誰かが見ていてくれる”は、一生懸命やることの大事さを説くためのオマケのようなものであって、かの言葉の真髄はむしろ「誰も見ていなくてもただ一生懸命やる」ということにあると解釈した。

詳しくは追い追い。

 

 

福本氏は役者。「見られる」のが仕事でもある。

とはいえ、スポットライトが当たるほうの役割ではなく、見られないのがデフォルトのほうの役割。

そんな中でパッと見つけてもらいたいのであれば、よい仕事を、究極の仕事ともいえるくらいの仕事を、しなければならないことになる。

彼らにとっての“見ていてくれる”は、究極の仕事をすることにも結びつくということだ。

 

一方、多くの一般人(自分の顔や姿を見てもらうことが仕事ではない)に“見ていてくれる”という言葉を当てはめようとすれば、ともすれば、「努力や頑張りを誰かが見ていてくれる」にもなろうというもの。

 

しかし、努力や頑張りを見せたり見てもらいたいと思ったりした時点で、福本氏や香美山が醸し出す人間性やかっこよさからは、まるで遠い。

 

究極の仕事に向かってやるのと、承認欲求に近いようなもののためにやるのとでは、これは大きな隔たりがある

 

 

見られるのが仕事でもあるけれど、見てもらえない「その他大勢」の持ち場でずっと奮闘してきた福本氏。
若い頃にはベテラン斬られ役の死体の代わりなんて役もザラで、顔は映らず、クレジット表記もされず。大部屋俳優たちはそんな仕事を数えきれないほどこなしている。

少しでも映るためにエビ反りになってカメラに顔を見せて死ぬという工夫を編み出しては、かげの役にずっと徹してきた福本氏。

 

そんな福本氏の“どこかで誰かが見ていてくれる”と、現代のSNS時代において自分の顔はおろか自分の努力や頑張っている姿さえ瞬時に世界中に提示することができる中での“どこかで誰かが見ていてくれる”とでは、その重みはかなり違う。重みも違えば質も違うのは想像に難くない。

 

一つ例をいえば、戦後の何もない時代の本当に貧しい中での「もっと裕福になってやる!」の望みと、現代日本で衣食住など何も困ってない者の「もっと裕福になってやる!」の望みでは、質が違うというものだ。
前者はそれが国や家族のための面も十分にあろうが、後者は欲に支配されてはいまいか。

 

言葉の発信者が駆け抜けてきた時代や置かれていた環境、その人がどんな仕事でどんな立場でどんな役割を担っているのか、等、そういった背景はやはり言葉とセットとなる。背景抜きに言葉を文字通りに取り込もうとしても、発信者の魂とは結びつかないこともあれば、欲を増長させることもあるので、受け取り側に注意が必要とはこういうことである。

 

 

先にも書きましたが、“誰かが見ていてくれる”はオマケのようなものと私は感じます。人間、言葉を出力するときには、自然と「詩」を付すことが少なくない。わかりやすくだったり、人の琴線に触れるためだったり、とにかく人に伝えるために詩を付し、それは時に夜空の星のように輝くけれども、夜空なくして星は輝かず、大部分は暗闇である(見えない・見てもらえない)という事実がある。

 

かの言葉の本質はとにかく一生懸命やることの大事さを説いていると思います。が、ただ一生懸命やれといっても実直過ぎて人の心に伝わっていかない。だから“どこかで誰かが見ていてくれる”の詩を付す必要性もあったと思うし、それにそもそも福本氏や香美山にとっての「見てもらえる」は仕事の一環だ。

大部屋俳優は見てもらえないのが当たり前の役割。そんな中でもとにかく一生懸命やっていれば、オマケを手にすることもあるよというくらいの機微ではないだろうか。オマケはオマケであり、本質ではない。

 

見てもらえない暗闇の中で一生懸命やらないことには、オマケも何もない。ということで、私はこの言葉の真髄は「誰も見ていなくてもただ一生懸命やる」ということと受け取った。とにかく一生懸命やれということに尽きると。

 

“一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる”は、福本氏あるいは香美山の嘘偽りない説得力のある言葉であるのには何も変わりはない。ただそれはやはり人に伝えたり人を励ますための詩的なセリフであって、受け取り側がそこから何を腹に落としていくかである。

 

福本氏や香美山の魂を己の中に落とし込むのであれば、誰も見ていなくてもただ一生懸命やる」に変換して、そのように実践していかなければならないだろう。

香美山のあの立ち居振る舞い。「努力や頑張っているところ」を見てもらいたいとは、彼は絶対に思ってないでしょう。そんなのは思った時点でダメになるという、誰も見ていなくてもただ一生懸命やるんだという精神を、私は感じた。

以上です。

 

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