※ネタバレありです。
『シェイプ・オブ・ウォーター』を映画館で観てきました。
半魚人である奇妙な生き物と、声が出せない女性の、異種間恋愛物語。
大人のおとぎ話です。
不思議な感じでふわりと好きになりました。
ふわりとといっても「何となく」みたいな意味ではありません。
私は「あ、この物語、好きだ」とはっきりと自覚する瞬間がありました。
具体的にいうとラストの、二人で入水した直後くらいです。
俗離れした二人が、尊く静かで美しい世界に「戻れた」ような感じがして、「ああ、よかったね」と心から思いました。
「この物語、好きだ」と自覚したのが二人が水の中で浮いてる場面だったので、「ふわりと好き」だという表現が出たのかもしれません。
優しく包まれる感じでしょうか。深くて畏怖もあるような。まさに水。
水に始まり水に終わる、くらい、作品の中では水は重要な役割を果たしています。
タイトルである『シェイプ・オブ・ウォーター』を訳すと「水の形」。
水の形ってなんだろう? と、まず思います。
水には形がない=愛には形がない=愛の多様性、ということだそうです。
映画情報サイトを見てみると、水はどんな形にもなれる(物体としての形ではなく、用途や概念など広義の意味での形、でしょう)という解釈もありました。これもつまりは愛はどんな形にもなれる=愛の多様性というところにいきつきます。
映画の舞台は1960年代で、現在よりも排他的な扱いを受けていた同性愛者や黒人の女性が味方として出てきます。
デルトロ監督がいうところの「others」←枠の外にいるような人たち、が出てきます。この作品のヒーローもそう。
ヒーローは人間の枠からすら外れている奇妙な生き物でした。
奇妙な生き物であるとはいえ、その容貌を見た印象は、「精悍」。
作中で女性が一目惚れするのであるから説得力を持った容姿でなければならず、デザインの際には女性の意見をたくさん聞いたのだとデルトロ監督はインタビューで答えていました。
女性の情熱を駆り立てる存在でなければいけなかったと。
引き締まりマッチョなスイマー体型も、そういった面からきているということです。
それからデルトロ監督は、顔のパーツはウルトラマンに影響を受けた部分があるかもしれないと語っていました。
参考 【インタビュー】形なき“水”が表す、愛の多様性『シェイプ・オブ・ウォーター』監督語る
思い返してみれば、なんとなくウルトラマンに似ている感じもします。
個人的には、この謎の生き物に最後まで名前がないところがとてもよかったです。
名前がないことによって「others」感が強調されます。
名前はそもそも他者と区別をつけるためのものなので、神秘的な存在の唯一無二の彼には名前は不要だし、名前があるとむしろ安っぽくなってしまったと思うので、ただの「クリーチャー」(生き物)でよかったと思いました。
クリーチャーが唯一無二であるように、イライザも圧倒的な唯一無二感がありました。
なんでしょう、あの絶妙な感じは。
配役の妙といいますか。
デルトロ監督は当初からイライザ役はサリー・ホーキンスと決めて脚本を書いていたそうです。
サリーが脇役として出演していた映画『サブマリン』を観たときに、目が離せなくなったんだと語っていました。
その気持ちに共感します。
イライザは一見地味に見えましたが、ところどころ色気を感じさせて、どんどん独特の魅力に吸い込まれていきました。
彼女がはにかむように微笑む瞬間は、映画『リリーのすべて』のリリー(エディ・レッドメイン)を彷彿とさせました。
はかなげでありとてもピュアで優しい微笑みながらも心で泣いてそうな繊細さがあり、そして中性的な魅力もあります。
イライザが隣の部屋の男性にクリーチャーを助けるよう訴えかけるときなどは、もどかしさや怒りが伝わってくる鬼気迫る演技でした。
惹かれ合ったクリーチャーとイライザ。
二人は常識もしがらみも捨ててしまわなければ一緒にはなれませんでした。
それらを捨てて自分たちの尊き美しき世界へいく、というのはもしかしたら多くの人間の理想であり、それを作品を通して味わえた幸せな感じと、しかし大事な友人とも永遠に離れることになった切なさか、はたまたリアルな人間はそこへはいけないという切なさか、とにかく切ない感じがほんのり混ざり合って、そういうのも踏まえた上で、『シェイプ・オブ・ウォーター』は全体的に大人向けな味だと思いました。
ネコ好きとしては衝撃を受けるシーンもありましたが、デルトロ監督作品の中では一番好きな作品になりました。