映画『楢山節考』―老婆おりんのかっこよさよ

楢山節考

 

一か月ほど前に、映画『楢山節考』(1958)を観ました。映画は初めてでした。本は読みました。

以下、映画(映像で物語を観て)の感想になります。


 

おりん婆さんがとにかくかっこよかった。個人的には、本より映画のほうが、おりんのかっこよさが際立って見えると感じた。(原作の本のほうは、日本の民話の怖さみたいなものがもっと霧のように取り囲んでくるような感じだったため)

 

おりんは自分の運命と対峙していた。自らの生き様を貫き通し、何と見事な矜持の持ちようか。ああいう掟がある部落に生きる老人として、最も誇り高い死に様ではないだろうか。侘び寂び的な誇り高さ・かっこよさがある。「死に様」こそ「生き様」であり、おりん婆さんの生き様が心にずんと響いた。

 

家族・子孫を食わせるために、自ら進んで楢山参りを望むおりん。自分の歯がきれいに残っていることを「いかにも食べ物を食うため」に残っているようだと恥じ、山に行くまでに歯をなくしたいと願い、実際に自分で歯を欠けさせた。

 

楢山参りの当日には、「山に行ったら口をきいてはならぬ」という掟通り、山に入る前からずっと口を閉ざし、息子が「何かしゃべってくれ。一言でいいから」と懇願するも、結局おりんは最後まで一言も口をきかなかった。

 

姥捨て後に雪が降ってきて、息子が母親のおりんのところへ駆け戻ってみると、雪を被ったおりんが無言で向こうへ行けと手振りで伝えていた。その姿が、地蔵様や仏様のように尊く見えて、崇高ささえまとっているように感じた。

 

おりんは決して恨みつらみも泣き言もいわなかった。楢山の神様に対して恥ずかしくないよう、ただ自分が楢山に行くことが神様に繋がるものだと信じ、それを貫いた。

 

この映画を観ていて、かわいそうだとか、そういったたぐいの涙は流れなかった。

 

ラストで、おりん婆さんの貫ける信念・姿に、喉がぎゅうっと搾り上げられるような痛みを感じた。

映画を観ていてたまに喉の痛みを伴う涙が出るときがあるが、これはどういった涙なのだろう。おそらくは、嗚咽とか声を出して泣きそうなくらいに込み上げているものをグッと堪えてるときの摩擦みたいなものだろうか。

 

 

おりんと正反対の存在として、隣家の老人がいる。山に行きたくないと逃げ回っている老人を演じていたのは、故・宮口精二。映画『七人の侍』の久蔵役であり、久蔵は寡黙で、(無謀にも近いくらいに)勇敢で、とてもかっこいい侍だったので、久蔵役とのギャップたるや、宮口精二の演者としての幅広さか。

おりんは覚悟を決めない隣家の老人にいう。それは神様とも家族とも縁を切ることだと。結局隣家の老人は最後まで覚悟を決められずに、息子からは敬われず、息子にむりやり崖から落とされてしまった。その息子も、通り掛かったおりんの息子と揉み合った末に谷に落ちた。(これは原作とは違うところである)。覚悟なきは、惨めな結果に繋がると、教えてもらったような心地だ。

 

覚悟のあるおりん婆さんはかっこよかった。雪山の過酷な中でも最後まで己を曲げなかった。

おりん婆さんは、私の中で、映画のかっこいい登場人物の一人に加わった。

 

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