映画『失くした体』を観た感想と少しの考察

『失くした体』

 

※ネタバレはないつもりですが、作品を観た後で読むのを推奨します。

 

映画『失くした体』(2019)の存在を知ったのは、映画館で予告編を見たからだった。

『ドリーミング村上春樹』というドキュメンタリー作品を観に行ったときに予告で流れていた。

さてこれからドリーミングな村上ワールドに突入するのかなと思っていたところに、ホラーチックで不格好でなんだか心を不安定にさせるようなアニメーションの予告の登場であった。

唐突に目を奪われた。

その予告、暗く、登場人物はじめ全体的な絵柄は「爽やか」とは逆にあるような雰囲気。
主人公らしき男がストーカーみたいなことをしている描写あり。またストーカーをしていてもおかしくないような陰鬱さが漂っている。
そして、切断された右手がそれ単体で街を動き回っているという独特の要素あり。

川端康成の作品に『片腕』という短編小説があって、その中で女の片腕が取り外されては片腕単体がしゃべったり動いたりするという設定があったが、それは主人公のフェチの対象としての片腕であったけれど、予告編で見たそれは「鑑賞物」とかではなく、切断された右手自体が何かを求めてさまよっているような主体性のあるもののようで、まあ肉体というよりは精神のほうの欠損のメタファーの感じがし、何か人間の内に潜るような感じの物語の気配がしたので、予告が終わるころには「よし、観よう」と思っていた。

 

かくして、ネットフリックスでの鑑賞につながった。
(劇場公開とほぼ同時にネットフリックスで配信された)

 

観た感想

以下、『失くした体』のレビューや口コミは一切見ていない中での正直な感想。

 

まず、観ていて最初のほうは、はっきりいって気持ち悪さが勝っていた。

生理的嫌悪をもよおすところあり、悲哀に満ちていて暗い。

ところがそれでいて観るのをやめようとはならず、生々しい描写に目が離せなく、ところどころジブリ作品のように「その錯覚のようなものは実は錯覚ではなく見知らぬ生物の仕業かもしれない」みたいに思わせるリアルとファンタジーを混ぜた描写がうまく出てきたりして見入ってしまっていた。

次第に主人公の悲哀を包み込みたくなるように、じりじりと登場人物に気持ちが寄っていった。

最後は同情や感動の種類ではないような涙を流すまでにさせられた。

 

観終わって、「この作品、よかった」と思わざるを得なかった。

 

私にとっては主人公の悲哀と打破とを包み込みたくなるような作品だったのであり、そんな感覚にさせられたとなれば、やはりひきつけられるものがあった作品にはなる。

仮にもし点数で評価するとなれば、私は高い点数をつけざるを得ない。

 

あの切断された「右手」とはなんだったのか

あの切断された「右手」は何を暗喩しているのか。
映画鑑賞後、この問いが各人の中に湧くかもしれない。

 

この問いに対する私なりの答えを書けば、「運命のようであったもの」となる。(ちょっと回りくどい言い方だが)

まるで運命かのように、小さい頃の記憶や思い出にもまとわりついていた「右手」。

その運命とも感じさせるような存在から脱却するには、主人公自身「思い切って自分で行く先を変えなければならない」と語っていた。それがラストの伏線にもなっていた。

 

ところでこの主人公、とても消極的な青年かと思えば、ひとたび恋の予感ともなれば人並み外れた行動力を発揮していた。
気になる女性が司書だということだけを手掛かりに、図書館に1件1件電話をかけ、そして彼女の勤め先を突き止めて実際に行ってみたりとか。
そして仕事終わりの彼女の後をつけた結果に、彼女の叔父に弟子入りしたりとか。

彼の普段がとことん無機的だっただけにちょっと刺激が入ると他人からは過剰に見えるようなエネルギーが放出されるのかもしれない。

はたから見れば、彼はとても覇気がなかったように見えたし、かと思えば突然異様な行動力を出すしで、高低差があるというか、平均よりも極端な性質に見えるかもしれない。

けれども、人間は誰しもそういった二面性はある。

たとえばそういった性質は切断された「右手」にも内包されていて、「右手」は高い所から落っこちても物に衝突しても平気な柔軟さや「強靭さ」もあるけれど、一方で物理的に小さいがためにネズミたちにやられかけるという、人間と比べれば肉体的に不利な「脆弱さ」も併せ持っている。

その黒白合わせ持つような、二面性を内包しているのが人間であり人生であり、たまたまそれが極端に発揮されるのが主人公であったということではないか。

 

主人公は少し極端に見えるかもしれない我々

主人公は(平均的な視点から見れば)極端な環境に身を置いている一般人、ということになろうか。

一般人ということで、我々と同じである。

主人公のように、多くの人々は、運命はあるのかないのかと考えたり、運命や既定路線から脱却して新しい道を行くにはどうすればいいのかと答えを求めたりしている。

主人公のようにとことん悲痛な経験をしていなくとも、主人公みたいにハードな境遇ではなくとも、現状に生きがいなどを見いだせずにぽっかりした心持ちで過ごしている人々は少なからず存在することだろう。

 

主人公の精神(心)は、死んでいるといっても過言ではないくらいだった。

主人公はどんな絶望的な目に遭っても慟哭することはなかった。泣き叫ばなかった。作業場でのうるさいハエを捕えようとする例のあのシーンの直後でさえも彼の反応は描かれてはいなかった。

彼の心の奥底からの感情が見られるのは、一番最後のところだけだった。

あの心からの叫びこそ「精神の生」の躍動な気がする。

 

「肉体」は生きていても「精神」が死んでいるなんて表現は、そう珍しいものではない。それだけ精神が死んでいそうな人が世間にいるという一定の認識がある。そんな世間の中において、生死を懸けた先で上げた主人公の心の叫びこそが、「精神が生きている」証ではないかと、平和な時代に生きている私は思うのだ。

生死を懸けるというのは、とどのつまり「命懸けでやる」ということになる。命懸けでやらなければ精神の生は躍動しないといえる。

 

主人公の彼が最後に取った行動をそっくりそのまま真似するわけにはいかないが、(肉体的な命を本当に崖のふちに追いやらないまでも)広義の意味で「命懸け」でなければ、運命みたいなものや既定路線みたいなものは変わらないということだ。

 

そんなようなことを、悲哀でもって言葉なく語りかけてきた主人公とその作品に、私は涙を流したのであった。

 

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