『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)を、IMAXで観たかったな、とずっと思っておりました。
公開当時は県外に出ないとIMAXが観られなかったのです。
二年前の映画になるので、もはやIMAXで(そもそもシアターで)観るのは不可能だと思っていました。
しかし、市内にある映画館の再オープン一周年記念により、特別に過去話題作が再上映されることになりました。
4つほどの再上映作品の中に、観たかった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』IMAX版があり、これ幸いと、吸い込まれるようにして映画館へ行って当作品を観てきました。
感想としては、やっぱり満足でした。
以前、通常の2D上映で観てもおもしろかった作品です。
迫力あるIMAX・3Dでの鑑賞となれば、それはもう満足満足の境地でした。
ストーリーをすでに知っていようと、マッドマックス鑑賞に影響はありませんでした。
ストーリーをアバウトにいってしまえば「行って戻ってくるあいだに戦う」というシンプルなものになりますが、その戦いやらカーチェイスやらがどえらいスリリングです。
3Dで立体的に観てて、2回くらいビクッとした瞬間がありました。
それくらい臨場感があります。こちらをヒヤリドキリとさせるような演出もあります。
ほぼ全編を通して、興奮のるつぼ……。
敵の一味であるドラム隊(&ギター野郎)の演奏は血わき肉おどります。
ちなみに、ギター野郎に心くすぐられた観客はネットを見る限り一定数いる模様でした。
彼は戦わずにずっとギター演奏に徹し、最後はあえなくマックスの「盾」にさせられてしまって、果てます。その「ギター馬鹿」さ加減と無防備さがいじらしく感じられるというところでしょうか。
ギター野郎は超脇役なんで映画ではいっさいの素性が明かされてませんが、盲目だという裏設定があります。だから戦えないし無防備だった……わけです。
「怒りのデス・ロード」は、女性にもウケがいい
映画館には女性客もたくさんいました。
マッドマックスシリーズ4作目にあたる本作品は、シリーズの中でも特に女性ウケがいいように感じられます。
フュリオサ隊長はじめ女性が活躍しますし。(かっこいい)
活躍というか、女でも男でも、強い奴は強い、戦える者は戦える、能動的に動く人は動く、みたいなごく自然なことを、自然に描いてくれています。
これは「男性と女性が平等」とか「同じ力を持っている」とかそういう話ではなくて、むしろ「一人一人能力はちがう」ということ。
女だろうが男だろうが能力も個性も「いろいろ」。人による、という当たり前の話。
女性と男性、さらには個人個人、の能力・質の差異や不平等さを「あるものはある」とした上で、だからといってそのことに執着したり余計な判断をしたりせずに、それぞれがそれぞれの持ち場で動く、ってのが何か禅にもつながるような一つの自然なおさまりのよさのある姿かと感じます。
結果として、強かろうが弱かろうが誰であろうが、死ぬときは死んで助かるときは助かるのもまた自然なことですね。

フュリオサ
「女性差別」作品とも「男性嫌悪」作品とも感じない
あと、この作品に関しての性別的なことでいえば。
『怒りのデス・ロード』では「子産み女」扱いされてる女性が出てきますが女性差別作品だとは思いません。また、女が男を排斥する男性嫌悪作品とも思いません。
性別についてのきわどそうな案件が出てくるわりに、多くの人にとってジェンダー的な不快感は湧かない作品かな、と思います。個人的な意見です。
監督は男性ですが、映画のなかの女性たちの描き方について、特に不自然だとかご都合主義だとかは感じません。
※ジョージ・ミラー監督は、女性キャラたちの人物造形にあたっては、女性のコンサルタントを起用して作り込んでいったとのことです。以下リンクのラジオ番組のインタビュー(公式)にて明かされています。(とても興味深くおもしろいインタビューでした)
リンク 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ジョージ・ミラー監督インタビュー/TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル
さすがに女性コンサルタントを入れただけあるというのか。映画内の女性たちの考え方や行動は納得できます。
イモータン・ジョーみたいな血も涙もない男からは逃げだすし倒そうとする。
一方、マックスやニュークスのような男性とは手を取り、心を通わせ、絆を結ぶ。
まあ、ああいう切羽詰った極限の状態ですし、男だからとか女だからとかではなく、「この人間はどうなんだ」で見極めますよねそれは。
こうやって今自分は腰を据えて文章を書いているから、一つ冷静に性別のことについても言及していますが、映画『怒りのデス・ロード』初見時は、性別のことを考えて観てなかった気がします。
マッドマックスって、なんかそういう性別とか年齢とか人種とか出自とかを超越した世界観があります。
マックスがもはや脱人間的

マックス
マックスは以前は普通の人間らしさがありました。警官の職についていたし仲間も友人もいたし、妻も子供もいました。
それらを失ってからはどんどん脱人間(脱俗)していってるように見えます。
シリーズ四作目の『怒りのデス・ロード』では、マックスはもうほとんど言葉を発しなくなっています。
彼のなかにマッド(狂気)は健在するも、そのほかの喜哀楽のような感情はほとんどゼロに近いくらいに感じられません。(フュリオサたちと交流していくうちに少しずつにじみ出はしますが)
恐怖心なども皆無といってもいいくらいに彼にはない。
映画中盤、トレーラーがぬかるみにはまった直後にマックスが単独で敵のもとへ乗り込むシーンがあります。
それはまあ無謀な行動なんですが、おそれを知らずに無謀に挑むのがマックスであり、結果的に敵をやっつけて帰ってくるのがマックス、です。
実際に敵と戦っている場面は映さずに、何食わぬ顔で霧のなかから戻り現れたマックス。その姿は、映画『七人の侍』の久蔵を彷彿とさせました。
久蔵もひとりで敵地に乗り込んで(彼の活躍はそこで終わってしまうものだとばかり思った)、敵の首をしっかり討ち取ってしれっと帰ってきました。
久蔵も寡黙で一匹狼的なキャラクターでした。久蔵もマックスも実力があるのでいつの間にか周りから信頼される。周りは崇高さを見い出すのだと思います。
そんなマックス。徐々に女性たちと心を通わせるものの、決して馴れることはしませんでした。誰とも馴れません。
007やインディ・ジョーンズのような女たらし要素もない。
必要以上の物資や金銭にこだわらないし、権力にも興味がない。
ふっと現れ、いつの間にかふっとどこかへ行く流れ者のマックス。
俗世界に馴染まない、安住しない、というどこか神話的な要素がありますね。
人間、神話的な話は好きかと思います。
神話的なのも、マッドマックスが多くの人を魅了するひとつの要因かもしれません。
やっぱりすごくかっこいい映画でした
いろいろ書いてきましたが、いま思うのは。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、かっこいいです、やっぱり。
監督はじめ制作陣のセンスというか、力量によって、ビジュアル(映像)も音もすごくクールです。
かっこいいばかりでなく、青みがかった夜の砂漠がものすごくきれいだったりします。かつて「緑の地」だった不気味な場所は、そこで生活している人種含めミステリアスで印象深かったですし。
何度か観てみると、(直接的ではないけれど)実はクスッとくるような一コマもあります。植物の「種」に関する女性二人のエピソードに涙が出たり、映画内で語り尽くされていないそれぞれの過去に複雑な気持ちになったり、いろいろ心動かされます。
『怒りのデス・ロード』は名作と思います。自分の中では名作です。
今回、IMAX・3Dで観られて大満足でした。
(※マッドマックスに関して、以前に以下のような記事も書きました)↓
