達観、華麗、軽やか、飄々、さっぱり、淡泊、軽率、無気力。
これらの言葉には、「あくせくしていない」という大雑把な共通点が、一見するとある。物事に執着していないというのか。
とはいえ、たとえば最初の2つと最後の2つ、「達観」「華麗」と、「軽率」「無気力」を比べてみれば、まったく違う種類のものであるのは誰もが理解できるところだ。
達観というと、仙人や僧侶の姿が思い浮かぶ。厳しい修行を積んでこその達観の境地であるのは言うまでもない。
同じく華麗というと、たとえばバレエダンサーが思い浮かぶが、一流のバレエダンサーになるには、血のにじむような努力が必要だ。
「達観」「華麗」の裏には、苦しみの血と汗と涙が付き物となる。
一方、「軽率」や「無気力」からは、血やら汗やらは感じられない。むしろ、そういうものを避けるイメージが単語の内に含まれている。
あくせくしていないような意味をあらわすにしても、使う単語によってその中身はまるで違うものになる。
その違いを大きく分けているものが、「血・汗・涙」となろう。
この辺のことについて、太宰治の小説『パンドラの匣』の中に、以下のような記述がある。
芭蕉(ばしょう)がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか〈中略〉
この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾(よく)と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。〈中略〉
すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。
――太宰治著『パンドラの匣』
太宰治は「かるみ」という言葉を用いている。
「かるみ」の心境は、慾と命を捨てなければわからないと述べている。
苦しく努力をして汗を出し切った後に感じられるものだと、すべてを失ってすべてを捨てた者の平安こそ「かるみ」なのだと、そう断じている。
「かるみ」のある人間は、さらりと軽やかに見えても、死ぬほどの苦しい努力や戦いを経験しているということになろう。
自分はこれをやってやる!という強い気概のある者だからこそ訪れる経験というのか、信念や大志の代償みたいなものだろう。
ずしんと沈むような「重いもの」が芯になければ「かるみ」に到達できないともいえる。
太宰治が言うところの「かるみ」を目指す人は、多いのではないだろうか。
あくせくしていて落ち着きのない大人よりも、何やら達観しているようなさらりと落ち着きのある大人のほうを目指したいと思う人のほうが多いのではないか。
しかし果たして現代で「かるみ」の境地に至ることができるのか。これは、よほど、よっぽど、意識して取り組まなければ現代では到底難しいことは明白だ。
この現代の血も汗も涙も減らすために動いているような「にこにこ幸福」な社会の中に生きていて、損や傷を負うことを極端に恐れている私たちは、誰も傷つけないように・誰からも傷つけられないように・失敗しないようにするために、無気力になるしかないところに追いやられている。あるいは、何かを得たいと欲するのであれば、軽率・軽薄になって、人々の共感を得るための船に乗り込まなければならない。人々の共感や人気を得るのが特に現代では価値ある人間のようになってしまっている。現代で時代の流れに乗って生きていれば、「かるみ」とは逆の「軽率」「軽薄」「無気力」に辿り着いてしまう。そういう時代だ。
現代の価値の逆に「強き信念」を置いて前に進んでいくのは、苦しみが伴う。損をしたり傷ができたりするのなんて当然で、太宰治が述べたように欲も命も捨てるところまで行かなければならないだろう。とてつもなく厳しくて難しい。けれどもそれをカッコいい生き方だと思うのなら目指せということになってくる。
血と汗と涙を流してすべてを捨てて出し切った後にくる一陣の風が「かるみ」。
それが達観や華麗さというものに結びつく。
苦しみがない軽さというのは、軽率や無気力になろうもの。
「かるみ」のある人は、苦しみや戦いをさらりとかわしているように見えるけれども、いったんそこにどっぷり浸かっているからこその「かるみ」が生まれ出るのだということは、忘れずにいたい。