映画『デタッチメント 優しい無関心』

『デタッチメント 優しい無関心』 映画(旧作レビュー)
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映画『デタッチメント 優しい無関心』(2011)を鑑賞。

原題は『Detachment』。邦題の「優しい無関心」は、主人公ヘンリーを指していると思うのですが、主人公は無関心どころか、なんなら誰よりも真摯なんじゃないかと思えるくらいに、関わった少年少女たちを、機微に通じた間合いで見守っていた。

無関心というよりは超然としているといったほうがしっくりとくる。俗気がないというか、達観してるというか。それでも時に彼の情緒が不安定になったり感情がむき出しになったりするところも描かれていて、主人公への共感の隙は案外幅広かったりする。

 

さてこの作品、救いがないようにも取れる終わり方をしていますが、生徒たちに具体的な救済措置を一つ提示していました。それは、本を読みなさい、ということ。

ヘンリー(先生)は、授業中に次にように語っていた。

常にイメージが与えられてたら――
想像力は働かない

(中略)

1日24時間死ぬまでずっと――
権力者は我々を沈黙させようと手を尽くす
つまり自分たちを守り――
思考プロセスを鈍化されないためには――
本を読み想像力を磨かなければ

 

ヘンリーはまた、「読書は、自分の信念体系や考えを失わないためのもので、自分を守るための技術である」と、そんなふうにも生徒たちに語っていました。

「本を読もう」というのが、この映画で特に伝えたかったことの一つであろうと感じます。

 

 

ところでとある本を読んでいたら、この映画のタイトルの一部である「無関心」についていみじくも書かれていました。その項目がずばり「無関心という比類なき怪物」。

その項目を読むと、映画『デタッチメント 優しい無関心』の中にあった「崩壊」の根源は、「無関心」にあったのではないかと思えてきます。

 

以下、本からの引用です。(参照:執行草舟氏 著『根源へ』)

(前略)絶対的な「生命の敵」について語りたいと思います。つまり、人生における最大最高の「残酷」です。それは、「無関心」ということに尽きるのです。「生きるとは何か」に無関心であることが、生命の最大の敵なのです。

原水爆を例に挙げて。

この世でもっとも残酷な悪人でも、原水爆を落とすことはできません。できるのは生命に対して無関心な善人だけです。いかなる人間も、生命に対する関心だけは持ち続けなければなりません。人間は、善人でも悪人でも、何でもかまわないのです。人生など、不幸でも何でもいいのです。生命の弁証法を抱きしめることだけが、人生を生きるということに繋がるのです。

そして、さらに。

不幸を嫌い、別れを嫌い、貧しさを嫌い、とにかく「楽」しか欲しくないというのが現代人です。これでは生命の弁証法が成り立ちません。そうなると、人は自分自身も含めて人間の生命や生きることに対して徐々に無関心になっていきます。生きることよりも、「楽」をすることの方が大切になってしまうのです。

 

と、「無関心」とその問題について書かれている。

 

他人に無関心である以前に、「自分が何者か」について無関心であり、人間としてどう生きるか、どう死ぬのか、つまり生命について無関心であり、だから、いち生命として物事を判断する軸がわからなくなり、メディアからの情報や周りの状況に流されるようになってしまうのではないのか、それが楽でもあるから……と、こんな構図としてまとめられるかと思います。これに大人も子供も関係ない。

 

おさらいみたいにはなりますが、「思考プロセスを鈍化されないためには本を読み想像力を磨かなければならない」と、ヘンリーが映画の中で言っていた。「読書は、自分の信念体系や考えを失わないためのもので、自分を守るための技術である」と。

 

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