映画「沈黙 -サイレンス-」を観てきました。
人間の葛藤と苦しみを描いた映画でした。
どちらを選んでも地獄のような二択を突きつけられる敬虔なキリシタンたち。
どちらを選択するのか。
その命運を見届ける映画でもあります。
江戸幕府によるキリシタン弾圧が激しさを増していた17世紀。長崎で宣教師のフェレイラ(リーアム・ニーソン)が捕まって棄教したとの知らせを受けた彼の弟子ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)は、キチジロー(窪塚洋介)の協力で日本に潜入する。その後彼らは、隠れキリシタンと呼ばれる人々と出会い……。
(引用元:シネマトゥデイ)
キリスト教で始まりキリスト教で終わる映画です。
ですが、「神」の存在を感じない映画でもあります。
タイトルである「沈黙」をしているのは、神。
――こんなに苦しんでいるのになぜ神は助けてくれないのか
――なぜこんなつらい試練をあたえるのだ
――神はなぜこたえてくれないのか
――神よ、あなたはいないのか
と、強く信じるものがあるからこその葛藤と苦しみが描かれています。
葛藤と苦しみ
なぜここまでキリシタンが追い込まれていたかというと、江戸幕府がキリスト教の信仰・普及を固く禁じたから。
もっとも、江戸幕府が強硬手段に出たのは、江戸幕府には江戸幕府の名分そしてキリスト教を弾圧する理由があるから。
のちに幕府は禁教(棄教)の手段として、拷問を課す方向へと転換していきます。
キリシタンからすれば、幕府は悪の権化だったことでしょう。
キリシタンは以下のような苦しみのスパイラルに陥ります。
キリスト教を信仰するがゆえに迫害されてしまう。
↓
それは想像を絶する苦しみをともなう。神にすがるしかない。
↓
ますます信心深くなるも、それゆえ棄教できず拷問に苦しむ。
窪塚洋介さん演じるキチジローのようになれたら“ラク”にはなれそうってなものですが。(もちろんラクなど望む人々ではないが)
キチジローは、キリスト教を信じつつも踏み絵を迫られれば絵を踏み、何度も出戻りと懺悔と裏切りを繰り返します。
調子のいい立ち回りをするもんで軽蔑はされますが、拷問からはススッと逃れます。
あそこまでプライドを捨てることができるのはもはや才能ともいえそうではある。
神父(パードレ)であるロドリゴいわく、「彼は彼で苦しみがある」ですが。
ヒグラシの鳴き声の効果
映画の冒頭はじめ数か所で、ヒグラシの鳴き声が差し挟まれます。
ヒグラシってところが味噌ですね。
ヒグラシの鳴き声は、日本の田舎の晩夏の象徴。
ヒグラシが鳴いてるところでは、やはりどうもキリスト教における「神」の気配は感じられない風情となる。
完全な静寂状態だったら神と交信できそうな気もしますが、ヒグラシの鳴き声をポンと入れることによって、神不在感、神沈黙感がグッと強まります。
そしてヒグラシの鳴き声を聞くと、風流だなと感じるとともに、夏が終わってしまう切なさや物悲しさが心に広がります。
栄えていたキリスト教の終わりを暗示しているようではあります。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」。まさに。
おわりに
最後に、演じていた俳優について少し書きます。
物語の中心人物であるロドリゴ、そして彼の相棒のガルぺ。
どちらもいい顔をした俳優さんでした。
「顔がいい」というより「いい顔をしている」。
そして「井上さま」役であるイッセー尾形さんが独特の味があり、おもしろい演技だと思わされました。
海外でもイッセー尾形さんの演技が絶賛されているようです。