小説『春にして君を離れ』―信念や哲学を持つ重要性がわかる(反面教師的に)

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アガサ・クリスティーの小説『春にして君を離れ』は、いろんな意味で胸にもたれるような話だった。

主人公のジョーン・スカダモア。本人は自覚しないまま、身近な人に「押しつけ」をやってしまっている。結果、身近な人をきりきりとコントロールするようなところまでいってしまっている。

こういった場合の押しつける側は、あなたのためを思って…というような「相手への思いやり」のつもりでいたり、何なら「自分が犠牲になっている」くらいの意識であったりするからややこしい。その実、本編でジョーン・スカダモア自ら考察していたように、自分が安心したいという利己的な願望が根底に多分にある。

利己的ゆえ相手の意思は何のその。相手が自分の思うほうと反対側に行こうとするなら、相手を攻撃してでも自分の方向に引っ張ろうとする(ただし自分の利益にならない相手には無関心)。そして自分は正しいことをしたと信じている。

私たち読者は、身近にいるジョーン・スカダモアについて想像したりするが、自分の中にジョーン・スカダモアが潜んでいたらどうしようという懸念も同時に抱いたりする。

 

他人に対して「本当は違うほうを選んでほしい」「こっち側に行ってくれたらいいのに」などと心の中で思ってしまうのは仕方がないことではある。つい思ってしまうこともある。そこで押しつけてしまうかどうかは、常日頃の人生観の置きどころが問われる。

「自」と「他」のけじめをはっきりつける必要がある。家族とて、子供とて、自分とは全く違う人間であり、親は子供の人生を生きられないのだと明確にしておかなければ、一事が万事ではないが、諸々の境目が曖昧になり、まるで子供を自分の人生のやり直しのように見てしまいかねなかったり、支配すら愛情だと自分で思い込んでしまうような交錯が生じたりしてしまう。

ここで「愛」の定義をはっきりさせておかなければならない。関係性が近いほどに愛情や愛という言葉が付いて回るが、愛の本質をどこに置くかで、利己的にもその反対にもなり得る。

愛の本質は、自分の命を自分以外のもののために擲つことができるか。に尽きる。詰まるところ自己犠牲ということになる。ジョーンはこれをやっていると自分で思っていたみたいだが。

しかしジョーンのことを、家族のために自己を犠牲にしている愛のある人、と見るのは無理がある。自身の見栄・体裁が最も大事であり、「自分が一番かわいい人」に見える。

家族は良くも悪くも自分の利得である。「家族のために」という、誰も批判できなくなるカードを掲げれば、結構卑しいことも正論っぽく成り得るから注意が必要だ。家族を良くするため(と本人は信じて)懸命にやっているつもりが、結局は自分の利益追求であることがある。その辺、自分と家族とが密接に入り組んでいる構図のため、よくよく観察してみないと我欲に気づきにくく、ジョーンは我欲に気づいていなかった。ジョーンとしては「家族のために」尽くしている、自己を犠牲にしているという自負があったわけだが、それは他者からの評価とは乖離がある。

彼女が実際にやっていたことは、「家族も自分とは違う存在である」ということを無視した、自分の願望の押しつけだ。

自分の命よりも大事な対象がないと、一番大事なものは(動物として最も大事な)自分の命=自分自身、となってしまう。自分自身が大事だから、自分に近い家族などの存在は、自分の見栄とプライドを満たしてくれるような配置にしたくなり、それを実現せんために口も手も加えるようになる。相手の意思ひいては相手の人生に犠牲を強いているようなものなので、それは愛でも何でもないということになる。

はっきりと、愛は自己犠牲であると認識しておく必要がある。尊いもののために自分が犠牲になる――要は、自分の損得なんか一切考えないという覚悟である。人間が命を持った生物である以上、自分の損得を一切考えないのは無理ではあるが、(無意識の部分だったり咄嗟の判断にそういうものはどうしても出てしまうこともあるだろう)、それでも損得なんか一切考えないという意志・覚悟を持つことが大事なのではないか。そういう覚悟があってようやく人間は、何とかそれらしい生き方ができていくようになるのではないだろうか。

そうでなければ、どうしても肉体というものを持っている現実の世界では、特に、ヒューマニズム爛熟期の現代では、簡単に“自分大事”な価値観に流されてしまう。たとえばこういうのだ。「自分の幸せを一番に考えよう」「自分のために生きよう」……自分の幸せ、自分のために、自分、自分、自分……

 

 

あとはジョーンの特徴について頻繁に描かれていたのは、常に他人の状況と自分とを比べる点だ。自分より下だと思えば見下し、相対的に自分はしあわせであるという安心感を得る

先ほども安心という言葉を使ったが、ジョーンは非常に安心感が好きな人物といえる。あとは保証。「そりゃ安心や保証は好きだろう」と言いたくなるほどに、現代の我々はそれらをありがたく思っている。

しかし、安心や保証というものは、ことごとく冒険心や勇気を潰す。

冒険心や勇気が必要なのは言うまでもないが、冒険には安心も保証もない。

安心も保証も大事なものだ――などとこっちはわざわざ言わなくても、私たちはもうそんな安心大事な世の中にどっぷり浸かってしまっている。そのうえ無意識に自分を守ることなんて人間たやすくできてしまうので、精神はせめて何くそと瘦せ我慢の一つもなければ、どこまでも安心・安全・保障というものに食われてしまう

だからこそ人間には哲学や信念が必要だ。自分の損得よりも大事な、自分の命よりも大事な対象を持つ、そんな哲学や信念。

そういったものがなければ生き方は自動的に欲望になり、自分が得をするもの、世間大衆がいいとするものにしか価値の置きどころがなくなる。常に相手の状況と自分を比べるしかなくなる。

常に相手の状況と自分を比べているジョーン・スカダモアからは、哲学や信念というものは感じられなかった。そういうものになり得る要素として宗教は一応持っているようだったが、それとて形だけのもので、敬虔な念は感じられなかった。

 

と、何もジョーンのことばかり言ってはいられない。現代に生きる私たちは、もっと信念や哲学を持ち難い世の中にいる。形ばかりの宗教すらほとんど持っていない。

私たちが今、インターネット環境も娯楽も一切ない僻地でひとり、何日も散歩するか思索にふけるしかなくなったら、何を深く考えるのか。インターネット接続が全然できない環境に行き着くなどほとんど不可能な世の中ではあるが。

 

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Saeka Kadomatsu
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この記事を書いた人
門松冴果

Saeka Kadomatsu
映画が好きな物書きです。小説を書いています。小説『アマタザキ』『霊峰記』等小説作品を、Amazonの電子書籍 キンドルで出版しました。《当ブログ記事一覧はこちら

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